2012.05.25
古河の歴史19 by もも子 [まちの歴史]
〔 古河藩の検地 〕
堀田正俊(ほったまさとし)は1681年(天和元年)、上野国安中から古河藩主になる。正俊は家光の乳母(うば)春日局(かすがのつぼね)の養子になっている。正俊は綱吉時代の幕政の刷新に努め、藩においては特に農政に力をそそぎ、土井利重の時の領内総検地(1664年)に続いて、1682年(天和2年)に検地を実施した。この頃から諸役(夫役)の法や年貢制度が整備されてきて、年貢納入もきびしくなっていた。
1684年(貞享(じょうきょう)元年)、正俊は親戚の稲葉正休(いなばまさやす)のために殿中(江戸城)で刺殺(しさつ)されたが、正俊の人がらを当時正俊の家臣であった新井白石がほめている。
正俊の死後、長男の正仲(まさなか)が後をついだが、1685年(貞享2年)に古河から山形へ移っている。山形の奥平昌章が宇都宮へ、宇都宮の本田忠平(ほんだただひら)が大和郡山へ、そして、大和郡山の松平信之(まつだいらのぶゆき)が古河へと移ってくる。このような国替えは三方替えといわれている。
〔 熊沢蕃山(くまざわばんざん)、古河城へ 〕
松平信之は、1685年(貞享2年)大和郡山から、老中で古河藩主になってくる。五代将軍綱吉好みの学者大名で、林鵞峰(はやしがほう)や熊沢蕃山などの儒学者と関係をもっていた。しかし、老中在任わずか1年で病気のために江戸で没した。坂間の碑に林鵞峰が松平家祖先以来の歴史と功績を刻み残している。
信之の死(貞享3年)後、長男の松平忠之が藩主になる。忠之は1687年(貞享4年)に大和郡山から熊沢蕃山を迎え受けている。
蕃山は陽明学者で、知行合一(ちぎょうごういつ)や藩民の福利をはかる実践的な考え方をもち、著書「大学或問(だいがくわくもん)」で参勤交代や兵農分離策などを批判して禁固の身になった。古河幽居中ではあったが、忠之は父信之と同様に、蕃山の学問、政治力を尊敬・崇拝(すうはい)していた。蕃山は治水事業に明るかったため、古河藩領内には蕃山が指導したといわれる蕃山堤や蕃山溜が今に伝えられている。
蕃山は1691年(元禄4年)、73歳で古河城内で没し、大堤の鮭延寺(けいえんじ)に手厚く葬られている。
〔 頼政神社を改修 〕
松平信輝は1694年(元禄7年),
川越から忠之の後に古河藩主になっている。信輝は「知恵伊豆」といわれた松平信綱の孫である。古河城の立崎曲輪に祖先頼政の廟所(びょうしょ)のあることを大変喜び、その社殿(頼政神社)を修築した。弟の輝貞は大灯ろうを寄進したり、高崎城内に頼政神社を造ったりしている。
信輝は1709年(宝永6年)、50歳で引退した。松平信祝(のぶてき)が後をついだが、3年後三河国吉田へと移っていく。
2012.05.21
世紀の天体ショー 『 金環日食 』 by もも子 [日記]
◇観ましたか?『 金環日食 』
テレビなどのメディアもこの世紀の天体ショーを一斉に取り上げていましたね。
◇どれだけの人がこの金環日食を観たのでしょう。
今朝7時過ぎから道のあちらこちらで、数人ずつのかたまりになって、日食観察グラスを次々に回して覗き込んでいる人達がいました。
◇また、家の中のテレビを観ながら、角度を変えて空を見上げ観察する。
という裏技を使った人もいたとか・・・
◇だんだんその時間が近づいてくると、「みえた!みえた!」と歓声が上がるなど、あちこちで小さいながらも盛り上がりを見せていました。
◇同時に太陽エネルギー(光や熱)の凄さも感じましたね。
徐々に太陽光線が弱まって明るさに翳りが、同時にぐっと涼しくなってくるなど、ふだん普通に明るくそして暖かく感じる事が出来る太陽エネルギーのありがたさを感じとることもできましたね!
◇次に日本で金環日食が観られるのは、18年後の2030年、北海道だそうですよ!!
◇今朝、「ほんの短い時間、目と心を奪われ、感動した瞬間に立ち会えたこと、一生のうちでもとっても貴重な体験だった」と感じた人は私だけではないと思いますよ V(^^)V
2012.05.16
古河の歴史17 by もも子 [まちの歴史]
〔近世の古河〕
江戸時代の古河に足を踏み入れてみましょう。
古河のまちのあちらこちらに、今も江戸時代の面影を見る事ができます。
江戸時代の古河は、多彩な文化の交流点として栄え、幕府政治の一端を担うほどでした。
日本の歴史に多くの人物を送り出しました。
〔古河の歴代藩主〕
織田信長、豊臣秀吉の全国統一につづき、徳川家康が江戸に居城し政権をとった。
古河には徳川氏と関係の深い幕閣の大名が藩主として任ぜられ、明治維新まで約280年間11家28名の大名(古河藩主)が在城している。
〔古河城下の整備〕
古河藩主の初代藩主には、1590年(天正18年)小笠原秀政(おがさわらひでまさ)が松本から移り、10年間にわたって古河に在住し、城の修復をしたり兵農分離や検地を行い村の境界を決定したりして、城下や領内の整備を行った。
秀政は妻の父にあたる松平信康(まつだいらのぶやす)(徳川家康の長男)の供養のために隆岩寺(りゅうがんじ)を古河に建てた。
関が原の戦いの後の1601年(慶長6年)、古河から信濃国(しなののくに)の飯田に移り、その後大阪の陣のとき戦死している。
松平康長(まつだいらやすなが)は1602年(慶長7年)、上野国(こうづけのくに)白井から古河藩主になり、城下町の整備に力そそぎ、追手門や観音寺曲輪(くるわ)や日光街道の一里塚などをつくった。
また、桃山風の特徴を有する典型的な慶長建築といわれる雀神社の現在の社殿を造営している。
康長は9年間古河に在住し、その後笠間に移る。
小笠原信之(のぶゆき)は1612年(慶長17年)、武蔵国本庄から古河藩主になり、中田の八幡神社の社殿の造営をしている。信之は古河で没した。
信之の後、8歳の政信が後をついだ。政信は大阪の陣に年少で出陣する。
信之・政信合わせて7年間の在住期間であった。
政信は隣藩の関宿藩へ移り、そこで没している。
奥平忠昌(おくだいらただまさ)は1619年(元和5年)、宇都宮から古河藩主になり、長谷曲輪(くるわ)・立崎曲輪をつくり、古河城を拡張して城下町の大改造を行った。
釣(つり)天井事件の後、忠昌は宇都宮に戻った。忠昌の古河在城はわずか2年10ヶ月であった。
2012.05.10
古河の歴史16 by もも子 [まちの歴史]
〔古河に開く足利文化〕
幼い頃から鎌倉に育った古河公方成氏は、戦乱が一時落ち着くと(都鄙(とひ)の和睦)、古河を鎌倉と同じような地にしようと多くの文化を古河にもたらした。鎌倉の円覚寺(えんかくじ)にゆかりのある乾亨院(けんきょういん)(のち永仙院(ようぜいいん))を建立したほか、鎌倉の長谷寺や鶴岡八幡宮などを古河に勧請(かんじょう)している。
〔医聖 田代三喜(たしろさんき)〕
二代古河公方足利政氏は、1509年(永正6年)、医聖といわれていた田代三喜を古河に招いた。
三喜はその処方の傷食丸(しょうしょくがん)や三喜丸(さんきまる)という薬を使い、古河地方の医療に大きく貢献した。
三喜は明(みん)に3度も渡り、日本に理論医学を伝えた人物である。古河の人たちから親しみと尊敬の念をもたれ、古河三喜とまで呼ばれた名医であった。当時の三喜丸は今なお伝え残っている。永仙院跡(桜町)に碑が建っている。
〔連歌師 猪苗代兼載(いなわしろけんさい)〕
猪苗代兼載は連化や和歌を学び、後土御門(ごつちみかど)天皇に仕え、将軍足利義政の歌の師にもなった有名な歌人である。晩年古河の地に住み、当時の名医田代三喜から病の治療を受けていた。
桜をこよなく愛した兼載が、自らの屋敷に桜を植えたことから、桜町の地名が生まれたとされている。
1510年(永正7年)に古河で病死し、野渡の満福寺に葬られた。
そこには長く「匂桜(によいざくら)」とよばれる桜があり、兼載の供養碑には「桜散りて名のみ残るや墳桜(つかざくら)」ときざまれている。
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