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2012.12.07

古河の歴史30(最終章) by もも子 [まちの歴史]

前回の「古河の歴史29」の掲載はここ



〔 古河藩の終末 〕
大政奉還、王政復古により、薩長土肥を中心とした新政府が誕生した。
新政府は五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)を天皇の名のもとに発表し、国内統一のための中央集権的な政治の仕組みを確立させようとした。

新政府は1869年(明治2年)、藩主に領地と領民を天皇に返上(版籍奉還)(はんせきほうかん)させ、旧藩主を藩知事に任命した。

古河藩では土井利與(としとも)が任命された。
さらに1871年(明治4N)、全ての藩を廃止して県を置いた(廃藩置県)。古河藩も古河県と改名され、後に中央から県令が派遣され、こうして中央集権の仕組みが整い、古河藩としての政治が終わった。


幕末から明治維新、そして大正デモクラシーを経て、激動の戦争の時代へと移りゆく近代。
古河の教育・産業・文化の発展はめざましいものがありました。
この時代の中で、古河の教育・産業・文化は更に発展し、そして人々の生活は変わっていきました。


これからの歴史を作っていくのは、今を生きる我々。
「歴史と文化の街」古河には、江戸情緒を思わせる当時の面影が残り、今もなお、あちこちに見ることができます。そんな、魅力ある古河の街を、そして、大切なこの文化的財産を、後世に残すべくみんなで守っていきたいものです。

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2012.11.02

古河の歴史29 by もも子 [まちの歴史]

前回の「古河の歴史28」の掲載はここ



〔 戊辰戦争と古河藩 〕
徳川慶喜(よしのぶ)は1867年(慶応3年)10月、政権を朝廷に返上(大政奉還)した。
朝廷はこの年の末に幕府を廃止し、天皇のもとで政治を行う王政復古を宣言した。

新政府は徳川慶喜を新政権に加えず、領地を返すことを命じた。
旧幕府側は慶喜を立てて反対し、戊辰戦争が起こったのである。

また、新政府は全国の有力な藩主を京都に集め、これからの政治について会議を開くことを決めた。古河藩は新政府に上洛を命じられた。古河藩内では、佐幕派と勤王派に意見が分かれ悩んでいた。

小杉監物はついに佐幕派を押し切って、藩主土井利與(としとも)と共に上洛を決行した。
その結果、古河藩は戦火にあうことなく、新時代を迎えることができたのである。
監物は古河に帰って9ヵ月後の1869年(明治2年)4月10日、62歳で病死した。




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2012.10.26

古河の歴史28 by もも子 [まちの歴史]

前回の「古河の歴史27」の掲載はここ



〔 古河の開港説 〕
古河藩の元江戸家老で蘭学者でもあった鷹見泉石は、ペリーの来航を知ると、「愚意摘要」という意見書を著した。その中で、泉石は、早急に軍艦・大砲をつくり軍法を改めること、日本の軍備を整えること、兵学・航海・測量などの技術を学ぶこと、外国に協力を惜しまず礼儀正しく接することなどを説いている。

古河藩が佐幕開港派であるといわれるのは、この鷹見泉石の考え方によるところが大きいといわれている。

〔 家老・小杉監物 〕
監物は古河に生まれ、23歳の若さで古河藩の筆頭家老になり、4人の藩主(利位・利享・利則・利與)につかえた。

時代の流れを読み取る力をもって鷹見泉石の考えを尊重し、西洋の思想を早くから理解した人物である。

弟に西洋流の砲術を学ばせたり、藩医の川口信順(しんじゅん)(川口信任の孫)に古河で始めて予防接種(種痘)を行わせたりした。

多くの人材を育てて活躍させ、古河藩の技術・文化、さらに武術の発展のために大きな功績を残した家老であった。

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2012.10.19

古河の歴史27 by もも子 [まちの歴史]

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2012.08.27

古河の歴史26 by もも子 [まちの歴史]

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