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2012.05.16

古河の歴史17 by もも子 [まちの歴史]

前回の「古河の歴史16」の掲載はここ



〔近世の古河〕
江戸時代の古河に足を踏み入れてみましょう。
古河のまちのあちらこちらに、今も江戸時代の面影を見る事ができます。
江戸時代の古河は、多彩な文化の交流点として栄え、幕府政治の一端を担うほどでした。
日本の歴史に多くの人物を送り出しました。

〔古河の歴代藩主〕
織田信長、豊臣秀吉の全国統一につづき、徳川家康が江戸に居城し政権をとった。
古河には徳川氏と関係の深い幕閣の大名が藩主として任ぜられ、明治維新まで約280年間11家28名の大名(古河藩主)が在城している。

〔古河城下の整備〕
古河藩主の初代藩主には、1590年(天正18年)小笠原秀政(おがさわらひでまさ)が松本から移り、10年間にわたって古河に在住し、城の修復をしたり兵農分離や検地を行い村の境界を決定したりして、城下や領内の整備を行った。
秀政は妻の父にあたる松平信康(まつだいらのぶやす)(徳川家康の長男)の供養のために隆岩寺(りゅうがんじ)を古河に建てた。
関が原の戦いの後の1601年(慶長6年)、古河から信濃国(しなののくに)の飯田に移り、その後大阪の陣のとき戦死している。
松平康長(まつだいらやすなが)は1602年(慶長7年)、上野国(こうづけのくに)白井から古河藩主になり、城下町の整備に力そそぎ、追手門や観音寺曲輪(くるわ)や日光街道の一里塚などをつくった。
また、桃山風の特徴を有する典型的な慶長建築といわれる雀神社の現在の社殿を造営している。
康長は9年間古河に在住し、その後笠間に移る。
小笠原信之(のぶゆき)は1612年(慶長17年)、武蔵国本庄から古河藩主になり、中田の八幡神社の社殿の造営をしている。信之は古河で没した。
信之の後、8歳の政信が後をついだ。政信は大阪の陣に年少で出陣する。
信之・政信合わせて7年間の在住期間であった。
政信は隣藩の関宿藩へ移り、そこで没している。
奥平忠昌(おくだいらただまさ)は1619年(元和5年)、宇都宮から古河藩主になり、長谷曲輪(くるわ)・立崎曲輪をつくり、古河城を拡張して城下町の大改造を行った。
釣(つり)天井事件の後、忠昌は宇都宮に戻った。忠昌の古河在城はわずか2年10ヶ月であった。

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