December 2017

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2017.12.02

古河提灯竿もみまつり by もも子 [イベント]

12月2日(土)
古河提灯竿もみまつり開催

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☆ 待ちに待った年末最大のイベント、「古河提灯竿もみまつり」

☆ 提灯竿もみまつりに、古河マルシェや歌謡ショー、和太鼓や古河甚句の演技が花を添えていました。

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☆ 自分の応援チームが出場した時には声高に声援を送り、一体となってお祭りを楽しんでいました。

☆ でも本当は、竿をもんでいる人たちが一番楽しいのよネ!!

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☆ 露店では、おまつりならではの商品やゲームなど楽しさ満載

☆ 普段とは全く違った様子の駅前通りに子供たちは大喜び



☆ 今年はこれで主なイベント終了ってとこかな?
そして次のイベントは、平成30年1月7日(日曜日)の七福神めぐりですよ〜〜

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2017.11.30

「古河提灯竿もみまつり」おさらい【6】 by もも子 [提灯竿もみまつり応援団]

「古河提灯竿もみまつり」おさらい【その6】

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「古河提灯竿もみまつり」の歴史やそれに関連する事柄が分かると、もっともっとより楽しく観ることが出来るのではないかなぁ!という発想で連載してきましたが、これまで書かれなかった小さな事柄を羅列してみました。

【昔の神事は不変であった】
30年位前までは “おかえりは12月3日と決まっていて、昔から神事については○月○日と決まっているもので、現在のように第1土曜などと変則的ではなかった。

【桟敷(さじき)って何?】
観客台のことで、屋根の上から張り出した平らな台の上で見物できるようにしたもの。

【競技もみって何?】
使う提灯(丸型8号・通称丸八)や人数(23人)にも決まりがある。
勝敗の基準は、
・火が消える
・竿が折れる
・提灯が取れる(燃える) 
こうなると“負け”というもの。
16の参加団体が対戦していき、敗者復活戦で勝ちあがった団体を含め、最終的には8団体での決勝戦で、上位3団体が表彰される。

【自由もみって何?】
1本の竿に対して人数の決まりはなく、およそ20人〜30人でもむことが多い。
提灯の火が消えても、火をつけ直して何度でももむことができる。

【ろうそくの火が消えないようにするための秘策】
各参加団体が独自に考えた工夫があって、残念ながら、秘策はあくまでも秘策として明かすことが出来ないのだそうです。
どうもろうそくを削っているようなのですが・・・??
誰かこっそり教えて!!

【竿もと】
竿が浮き上がらないようにするため、トンボを4人がかりで、ひたすら力ずくで抑える
そのため、体ががっしりした頑丈な人がこの役に最適。
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≪もも子のひとりごと≫
長い歴史と共に変化を遂げながらも脈々と続いてきたこのおまつり、次の世代、また次の世代にと受け継がれていくことを強く願ったレポートでした。
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2017.11.28

「古河提灯竿もみまつり」おさらい【5】 by もも子 [提灯竿もみまつり応援団]

「古河提灯竿もみまつり」おさらい【その5】

「古河提灯竿もみ

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【今夜べぇだ 今夜べぇだ】
いざこざがあっても、無礼な事があっても根に持たない。
今日ばかりは無礼講だ!
商店などの小僧さんや使用人たちは、普段のキツイ仕事から解放され、今夜ばかりは自由だ!
明治以降、まつりの夜に取締りをする藩の役人達は、この日だけは特別に見て見ぬふりをしてくれた。

「今夜べぇだ、今夜べぇだ」と、口々に言っていたのは、無礼講が認められ、ほんのひと時の自由への歓喜の現れだったのか烽オれません!

〜〜もっと詳しく知りたい〜〜】
激しく揉み合い、自由にならない提灯竿を懸命にもみみ合うこのまつりは、男のエネルギーのぶつかり合いであり、発散の場でもあった。
そこは、無秩序と混乱、興奮と怒号の空間であり、全てを忘れてただ揉むことのみが目的となった。

まつりの掛け声の「今夜ラぇだ、今夜べぇだ」とは、「今夜だけだ」というこの地方の方言で、今夜だけは普段許されない事が可能になり、日常起こりえないことが起こる。

「今夜べぇだ、今夜べぇだ」はまつりだけでなく、まつりに関連した事柄にも及んだ。
この夜だけは、映画館、芝居小屋、料理屋あるいは遊郭も終始営業し、女性や子どもも遅くまで出歩く事が許された。

提灯竿もみまつりには、当然のように怪我と喧嘩がつきもので、この喧嘩も「今夜べぇだ」と言ってこの夜のうちに納められ、この仲裁に重要な役割を果たすのが、町内頭(がしら)や鳶(とび)の人達だった。

提灯竿もみまつりにおける鳶(とび)の役割は、各町内で竿の組み立て、提灯の胴元、矢来の組み立てとともに、もみ場の警備等があり、「矢来の中の喧嘩は、警察が入ると余計に大きくなり、納まるものも納まらなくなる。」と言われており、頭(かしら)が仲裁に入ると、相手も引き下がり、あとは町内の役員同士で話し合って解決された。
彼らが半纏を着ていることから、半纏着が入ると、どんな喧嘩でも納まると言われた。
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≪もも子のひとりごと≫
提灯竿もみまつりは、中でも最大の楽しみであったと思われ、「今夜べぇだ、今夜べぇだ」とハメを外し、楽しんだのかもしれませんね!!
そして、“無秩序と混乱、興奮と怒号”って、ワー!想像もつかない男の世界!
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2017.11.27

「古河提灯竿もみまつり」おさらい【4】 by もも子 [提灯竿もみまつり応援団]

「古河提灯竿もみまつり」おさらい【その4】

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要となる竹竿に施される工夫
「今夜だけは」と開放感たっぷりの自由が許される一夜
まつりの中に潜む人情の機微
だんだんまつりの中の世界に引き込まれていく〜〜

【竹竿は変化し工夫が加わった】
江戸時代までは、あまり長くない竹竿を1人が1本持ち、1つの灯を灯していました。

次第に(明治に入って)、1人1本ではなく、現在の形に変化していき、トンボやカンナをつけた長い竿で15人〜20人位で行なわれるようノなり、大きな竿の周りには、もみ手やチームの安全を守るため、小さな提灯を持った、護衛役の人をつけるようになっていきました。
「まつり」というより、むしろ「競技」といった方が良いくらい激しいものだからなのです。

横山町に集まった若者たちは、各自が自分の名前を書いた提灯を馴染の女郎衆に見せて自分の存在を示したが、これを争ううちに、次第に竿の長さが長くなり、そのため1人では持ちきれなくなって、何人かが共同で支えられるように、竿の構造が改良されていきました。

〜〜もっと詳しく知りたい〜〜
竿が長くなり、支える参加者が増えるにつれて、まつりの場所である横山町通りの遊郭や商店の軒先の瓦や樋(とい)が度々壊されるため、これを保護する目的で、通りの両側に矢来(やらい)を組んで「もみ合いの場所はこの矢来の中だけ」と限定しました。
この矢来には、他にも観客の危険防止のため作られる。とも言われています。こうして現在の「古河提灯竿もみまつり」の形態ができあがっていきました。

提灯竿はきわめて重要で、提灯と竿に関する各団体の関心は大きく、加工と作製は丁寧かつ入念に進められ、特に趣向を凝らす余興竿については、部外者には漏れないように慎重に扱われます。

竹竿は、もみ手の支えとなり、更には相手の竿とかみ合わせるために、強度と軽さが必要とされ、その入手はとりわけ慎重になります。

普通で八・九間(約15・6メートル)、最も長いのは十三・四間もあるといいます。
各町内の会所や空地に運び込まれた竹は、曲がりが矯正され、堅く軽くするために油抜きが施されますが、1年目の竹よりも2年目以上のものの方が軽くて丈夫であるといわれています。

次にカンナと呼ばれる細竹が、竿の下から二間位のところに4、5本取り付けられ、カンナは、十間以上もある竿を倒れないように支える補助棒で、1本のカンナに4、5人がついて支えます。

そうすると竿全体が浮き上がってしまい、全体に不安定となって提灯の火も消えやすくなりがちです。
これを防ぐために、竿の根本にトンボと呼ばれる細木が竹竿を貫通して十字に2本入れられます。

トンボの上には胴元が乗って、全体の重しになると同時に、竿の移動やカンナの位置などの指揮をとります。

胴元はきわめて重要で、町内頭や熟練者が努めるのが常で、カンナや胴元及び胴元の護衛など30人近くが1本の竿を支え、倒れないように引きずるようにして移動させるのがコツであるといわれています。

出来上がった提灯は、町内の会所前に設けられたリン場に立て掛け、夜には火を入れます。
競技竿と余興竿
先端に付けられる提灯と竿の長さに応じて、競技竿と余興竿の二種類に大別でき、競技竿は余興竿よりも長く、竿の先端には直径8寸(約24センチ)ほどの丸八という提灯が付けられます。

余興竿は自由もみに使われ、大人も子供も、順位を気にせず楽しむ事が出来ます。

競技竿の長いものから順に一番竿、二番竿と呼ばれ、一番竿には提灯に加えて幣束と笹とを取り付け、最後の競技に持ち出されます。

鍛冶町の一番竿には野木神社の神札が固定されます。この一番竿は、“おかえり”が野木神社であった頃は、各町内の会所に立てて献燈したということです。
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≪もも子のひとりごと≫
という事は、勝負を左右する竹の選び方に注目だわね!!
どこの竹を?どう見つけてくるか?という事が問題になってくわ・・・
真竹ってどんな竹かしら?
竹の曲がりをどう矯正するのかも興味あるし、油抜きの現場も見てみたい!!
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2017.11.20

「古河提灯竿もみまつり」おさらい【3】 by もも子 [提灯竿もみまつり応援団]

「古河提灯竿もみまつり」おさらい【その3】

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【横山町と鍛冶町は特別な位置づけだった】
鍛冶町の人はもともと野木の住人だったのです。
江戸時代、野木のレンガ場(レンガを焼く窯がある所を昔から「レンガ場」と呼んでいる)近くの台手箱という所に住んでいた鍛冶職人は、江戸時代になって古河藩の城下町を築くため、鍛冶町に住むようになりました。

鍛冶町の人々は、現在に至るまで、野木神社の祭礼に21本
のボンボリを奉納したり、七郷(しちごう)めぐりの神事にも供物を供えるなど、野木神社との結びつきは密接なのです。

“おかえり”に野木の人々も参加していたのは、横山町と野木町は江戸時代初期には行政区が一緒で、横山町は野木町に属していたからなのです。
従って、横山町の人々は野木町で行なわれていた提灯竿もみまつりに参加していました。

横山町は、江戸中期から花柳界へと発展していきました。
すると次第に、野木町で提灯竿もみまつりをやるより、賑やかで華やかな横山町の花街でお祭りをするようになっていきました。

この時の提灯竿もみまつりは、横山町と鍛冶町の住人が中心となり、その後、他の町内の人々も参加するようになっていきました。

〜〜もっと詳しく知りたい〜〜
おかえりの到着を待ちわびた若者たちが、野木でもみ合っているうちに、遊郭や料理屋が立ち並び、古河随一の歓楽街であった横山町で時間を潰し待つようになり、そのうち馴染の女郎衆などができると、「野木でもむよりも横山町でもみ合った方が張り合いがある」というので、次第に横山町がもみ場として定着してきました。

あるいは、古河の町中をもみ合った若者たちが最後に落ち合う場所が自然と横山町となったという事も考えられます。

いずれにしても、横山町のマチにおける機能(それは、マチが周囲の農村に対して持つ機能の一つ)が作用して、まつりがマチへ定着したと考えられます。

もみ合いの持つ意味が、暖をとることや行列の進退をめぐって争う、という肉体的、感覚的なものから、男らしさの誇示へと転換していきました。
この意味の転換が、以降のまつりの基調をかたちづくり、まつりを洗練させる契機となりました。
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≪もも子のひとりごと≫
自分の存在を誇示する・・・
形や方法は違っても、いつの時代でも“アピール”は欠かせないものなのかも!!
アピールといえばこんな光景を見た事が・・・オス鳥がメス鳥の気を引くために、一生懸命羽根を広げ一心不乱に踊っている。。。
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