2012.03.21
第36回古河桃まつり(その1) by もも子 [イベント]
3月20日(火)古河総合公園において、
第36回古河桃まつりの開会式が行われました。
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矢澤観光協会副会長の開会宣言を合図に、華々しく花火が打ち上げられ、観光協会名誉会長でもある白戸仲久古河市長のご挨拶に続き、野村観光協会長のご挨拶、ご来賓の方々からのご祝辞と続き、好天に恵まれた開会式はとても賑やかでした。
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「今年は寒さの影響で、一輪の花も咲いていないことが何とも残念ですが、これから一輪、二輪と待ちに待ったかわいい花が咲きはじめます。多くの皆様に楽しんで頂きたいです。」
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「昨年は東日本大震災により、桃まつりの開催を見合わせました。今年はこれまでよりもすばらしい桃まつりにしたいです。」と、意気込み溢れる開会式となりました。
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また、「花の咲き具合によっては桃まつりの開催期間を4月8日(日)まで延長することもあります。」とのことでした。
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更に、桃の花を増やそうということで、市内の各小学校へ桃の苗木の贈呈があり、代表校の3校の児童と教諭が登壇し、桃の苗木の贈呈式が行われました。
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最後に、昨年の華むすめさんから今年の華むすめさんへとたすきの受け渡しがあり、今年の4人からは、「頑張って古河の観光PRに努めます。」と、頼もしい宣言がありました。
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開会式の最初と最後には古河和太鼓保存会の演奏があり、桃まつりの開催に花を添えてくれました。
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開会式に大勢の方が来場されました。V(^^)
2012.03.19
2012.03.12
古河の歴史13 by もも子 [まちの歴史]
〔二代古河公方足利政氏(まさうじ)〕
政氏は1506年(永正3年)子の高基(たかもと)と不和になり、高基を宇都宮へ追いやった。その原因は、北条氏の進出に対して高基は同盟を考えたが、政氏がこれに反対したためとされる。1509年(永正6年)、いったん和解が成立し、高基は古河に戻ることはできたが、長くは続かず3年後再び不和になる。
1519年(永正16年)、政氏が久喜の館に隠退(いんたい)し、高基とも和解したといわれる。
二代政氏は1531年(享禄4年)に66歳で没す。
「甘棠院殿吉山道長(かんとういんでんきちざんどうちょう)」と号し、甘棠院(久喜市)に葬られている。
〔三代古河公方足利高基(たかもと)〕
高基は三代古河公方となったが、親子の不和に続いて弟義明(よしあき)(小弓御所 千葉市)との争いもあり、公方への不信感を強めてしまった。そのため、この頃関東で力を伸ばしていた北条氏の力を強くしてしまうこととなった。
高基は1535年(天文4年)(てんぶん)に古河城で没した(没年には51歳の説がある)。千光院というところに葬られたというが、場所は明らかではない。
2012.03.07
古河の歴史12 by もも子 [まちの歴史]
〔古河公方五代〕
〔初代古河公方成氏(しげうじ)〕
1455年(康正元年)、成氏は鎌倉から古河の地に入った。以後、小山氏をはじめとする諸氏に支えられた成氏は「古河公方」と呼ばれ、古河に城下を形成し、北関東の中心的存在となった。
それに対し鎌倉の上杉氏は、太田道潅(おおたどうかん)に江戸城や川越城を築かせ古河公方勢力と対抗した。
成氏が古河の地に入ったのは、成氏の母方(梁田(やなだ)氏)の地元であり、かつての下河辺の荘を鎌倉の所領としていたことや、利根川などの川に囲まれた自然の要塞地であったことなどのためといわれている。
成氏は古河の地で勢力を盛り返し、上杉氏を破って鎌倉に戻るつもりでいたが、戦いは一進一退であった。
その後も利根川・渡良瀬川をはさんで古河公方と上杉方の攻防が続いた。
幕府は古河公方を抑えるため、将軍義政(よしまさ)の弟政知(まさとも)を関東に送った。
正知は伊豆堀越(静岡県韮山町)在留したため「堀越公方」と呼ばれた。
関東の諸将は、二人の公方にそれぞれ分かれて争うこととなった。
1471年(文明3年)、成氏は小山氏、結城氏らを従え、伊豆の堀越公方を攻めたが上杉方の策略で失敗した。成氏は一時古河の地を離れたが、翌年には結城氏などの応援を得て古河の地に戻った。
長く続いた享徳の乱も1482年(文明14年)には将軍(京都)と公方(古河)との間で和睦が成立した。「都鄙(とひ)の和睦」といわれており、この和睦の成立で関東には一応の安定は見られたが紛争はなくならなかった。
初代古河公方足利成氏は1497年(明応6年)に64歳で没した(60歳の説もある)。
野渡(野木町)の万福寺に墓所があるとされています。
いよいよ古河公方の登場です。
さらに興味が湧いてきますね!!
2012.03.06
古河の歴史11 by もも子 [まちの歴史]
〔足利成氏の鎌倉公方就任と享徳の乱〕
結城合戦後、1447年(文安4年)に足利持氏の四男万寿丸は、幕府に許され足利成氏と名を改め、信濃国から鎌倉に帰り鎌倉公方になった。
小山氏、宇都宮氏など北関東の武士には待ち望んだ結果であったが、上杉派との対立は次第に高まっていった。
1454年(享徳3年)、成氏によって、関東管領上杉憲忠(のりただ)が殺される大事件がおこり、関東の騒乱は東国一帯の大乱に発展していった。
これが「享徳の乱」である。
しかし、上杉側が幕府の支持を受けたため成氏は苦しい戦いをしなければならなかった。
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