March 2012

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2012.03.07

古河の歴史12 by もも子 [まちの歴史]

前回の「古河の歴史11」の掲載はここ



〔古河公方五代〕
〔初代古河公方成氏(しげうじ)〕

1455年(康正元年)、成氏は鎌倉から古河の地に入った。以後、小山氏をはじめとする諸氏に支えられた成氏は「古河公方」と呼ばれ、古河に城下を形成し、北関東の中心的存在となった。

それに対し鎌倉の上杉氏は、太田道潅(おおたどうかん)に江戸城や川越城を築かせ古河公方勢力と対抗した。

成氏が古河の地に入ったのは、成氏の母方(梁田(やなだ)氏)の地元であり、かつての下河辺の荘を鎌倉の所領としていたことや、利根川などの川に囲まれた自然の要塞地であったことなどのためといわれている。

成氏は古河の地で勢力を盛り返し、上杉氏を破って鎌倉に戻るつもりでいたが、戦いは一進一退であった。

その後も利根川・渡良瀬川をはさんで古河公方と上杉方の攻防が続いた。

幕府は古河公方を抑えるため、将軍義政(よしまさ)の弟政知(まさとも)を関東に送った。
正知は伊豆堀越(静岡県韮山町)在留したため「堀越公方」と呼ばれた。
関東の諸将は、二人の公方にそれぞれ分かれて争うこととなった。

1471年(文明3年)、成氏は小山氏、結城氏らを従え、伊豆の堀越公方を攻めたが上杉方の策略で失敗した。成氏は一時古河の地を離れたが、翌年には結城氏などの応援を得て古河の地に戻った。

長く続いた享徳の乱も1482年(文明14年)には将軍(京都)と公方(古河)との間で和睦が成立した。「都鄙(とひ)の和睦」といわれており、この和睦の成立で関東には一応の安定は見られたが紛争はなくならなかった。

初代古河公方足利成氏は1497年(明応6年)に64歳で没した(60歳の説もある)。
野渡(野木町)の万福寺に墓所があるとされています。

いよいよ古河公方の登場です。
さらに興味が湧いてきますね!!

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2012.03.06

古河の歴史11 by もも子 [まちの歴史]

前回の「古河の歴史10」の掲載はここ



〔足利成氏の鎌倉公方就任と享徳の乱〕
結城合戦後、1447年(文安4年)に足利持氏の四男万寿丸は、幕府に許され足利成氏と名を改め、信濃国から鎌倉に帰り鎌倉公方になった。

小山氏、宇都宮氏など北関東の武士には待ち望んだ結果であったが、上杉派との対立は次第に高まっていった。

1454年(享徳3年)、成氏によって、関東管領上杉憲忠(のりただ)が殺される大事件がおこり、関東の騒乱は東国一帯の大乱に発展していった。
これが「享徳の乱」である。
しかし、上杉側が幕府の支持を受けたため成氏は苦しい戦いをしなければならなかった。


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2012.03.02

ひな祭り by もも子 [日記]

画像(320x240)・拡大画像(640x480)

【 写真は鷹見泉石記念館のひな人形です 】


明日3月3日は雛祭り。

この雛祭りは、五節句のひとつで、邪気を祓う霊力を持つ桃の花にちなみ、桃の節句ともいわれます。

旧暦では、月のいちばん初めの巳の日、上巳(じょうし)がこの日にあたります。

古来より日本では、3月の上旬に人形(ひとがた)に身体の穢れを移して海や川に流す「流し雛」の風習がありました。

人形を玩具として飾って祝う雛祭りは、室町時代から江戸時代にかけて形づくられ、今日のようにひな壇に鎮座する形で一般に広まったのは、江戸時代中頃といわれています。

今年の桃の節句(旧暦)は、3月24日です。



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古河の歴史10 by もも子 [まちの歴史]

前回の「古河の歴史9」の掲載はここ



〔関東争乱と古河公方の成立〕
京都に置かれた室町幕府は、関東にも幕府と同じ組織の「鎌倉府」を設け、将軍に当たる鎌倉公方や、幕府の管領(かんれい)と同じように関東管領を置いて、東国10カ国を治めていた。将軍足利尊氏(たかうじ)の四男基氏(もとうじ)が初代鎌倉公方の間に対立が起こり、関東で争乱が続いた(1416年(応永23年)の上杉禅秀の乱)。
後は、将軍と鎌倉公方の全面対決となっていった。

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2012.02.20

古河の歴史9 by もも子 [まちの歴史]

前回の「古河の歴史8」の掲載はここ



〔鎌倉街道と静御前〕
このころの主要な道となっていた鎌倉街道はいく筋も通っていたが、主なものは、
鎌倉 ― 武蔵国府中 ― 高崎 ― 信濃国へと続く「上の道」(かみのみち)、
鎌倉世田谷(東京都)― 春日部 ― 宇都宮 ― 奥州への「中の道」、
そして、
鎌倉 ― 浅草 ― 下総国国府台(こうのだい)(千葉県市川市)へと続く「下の道」(しものみち)があったと言われていて、古河のあたりは、陸上では「中の道」、水上では「下の道」に沿って鎌倉へ結ばれていたといえます。

この鎌倉街道沿いには多くの伝説が残されています。静御前の話もこのあたりに残された伝承の一つで、当時の様子を知る手がかりになるでしょう。
古河周辺に伝わる静御前の伝承はおよそ次のようです。

東北地方に逃れた源義経を慕い、侍女(じじょ)の琴柱(ことじ)を連れて旅を続けていた静は、下総国下辺見(古河市下辺見)まで来たとき、義経が奥州高舘(たかだち)で戦死したと聞かされ、思い悩んだ静は、そこの橋(思案橋)から引き返し、前林へ向かった。途中振り返りながら柳の枝を結んだといわれる。「結びの柳」や「静かえり」という地名なども残っている。

栗橋まで戻り、伊坂の里(高柳寺)(こうりゅうじ)で、琴柱に看取られつつ静は亡くなりました。

静御前の遺品と伝えられる舞衣(まいごろも)(蛙蟆龍の御衣)(あまりょうのごい)・義経のかたみの懐剣などは、そのとき納められたもので、寺宝として残されています。(光了寺縁起より)

高柳寺は、古河(中田)に移って、現在光了寺と呼ばれている。光了寺の宝物館(太子堂)に静御前の遺品などが保存されていて、「蛙蟆龍の御衣」は古河市指定文化財になっています。
ほかに静橋(中田)、静の椿(前林)などの伝承があり、供養碑は栗橋駅前にあります。

これらの伝承から鎌倉街道は、鎌倉 ― 伊坂 ― 前林 ― 下辺見 ― 古河 ・・・ 奥州へと続く道があったと考えられます。


静御前終焉の地を行くはここから

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2012.02.17

古河の歴史8 by もも子 [まちの歴史]

前回の「古河の歴史7」の掲載はここ



〔頼政神社〕
古河市錦町にある頼政神社は、この源頼政をまつったもので、次のようないわれがあります。

源頼政が平等院で自害したとき、その側にいた家来に、「わが首をもち諸国を回って、魂の安まるところを探せ。」といったというのです。その首を背負って逃げた家来は、関東までやってきて、とある小高い丘で休みました。

「さて、行ってみるか。」と持ち上げようとすると、その首が石のように重くなり、持ち上げることができなくなりました。これはきっとこの場所に葬(ほうむ)れということに違いないと考え、その場所に首をまつったと伝えられています。

そこは当時、源氏の重要な御家人の領地であった下河辺の荘(古河地方)の立崎(たつざき)でした。頼朝の一番の側近であった下河辺氏の荘内にまつられたことは、頼政にとって心の安まる地であったのでしょう。(頼政神社縁起より)

この立崎の地に、手厚くまつった祠(ほこら)(首塚)が頼政神社の始まりです。
なお、現在の頼政神社社殿は、1696年(元禄9年)当時の古河城主であった松平信輝が、祖先の墓として城内に修築したものを1913年(大正2年)渡良瀬川河川改修工事の時に、現在の錦町(三国橋近く)に移築しました。


ということは、平等院鳳凰堂の裏手境内に胴塚があり、古河の立崎の地に首塚があるということで、歴史を紐解いていくと、思いもかけない事実を知ることができるのですね!!

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