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2012.05.28

古河の歴史20 by もも子 [まちの歴史]

前回の「古河の歴史19」の掲載はここ


〔 幕閣大名、古河へ 〕
本田忠良(ほんだただよし)は1712年(正徳2年)、三河国刈谷から古河藩主になる。将軍綱吉(つなよし)・家宣(いえのぶ)・家継(いえつぐ)・吉宗(よしむね)・家重(いえしげ)の五代に仕えている。吉宗のときには、老中を二度にわたり勤めている。

62歳で没すると忠敞(ただひさ)が後をついだ。父子二代で古河在城46年6ヶ月にわたり、土井氏につぐ長期藩主であった。

忠敞は1759年(宝歴9年)に石見国浜田へ移り、同年33歳で亡くなる。

松平康福(やすよし)は1759年(宝歴9年)に浜田から古河に来る。寺社奉行から古河藩主になり、翌年大坂城代になる。わずか4年で古河藩主としての期間は終わったが、25年間老中の座にいた。

〔 後期の土井家 〕
土井利里(どいとしさと)は1762年(宝歴12年)に唐津から古河に移ってくる。土井家が80年ぶりに古河に戻ってきたのである。利里が京都所司代在任中、藩医の河口信任に人体解剖を許した。土井家が唐津で開校した藩校盈科堂(えいかどう)もこの時に古河へ移った。1777年(安永6年)に京都で没した。その後、土井利見(としちか)が古河藩主になったが、わずか23日間の在任で急死した。

急ぎ、養子の土井利厚(としあつ)が古河藩主になった。利厚は老中を長年勤め、その功で1万石増加され8万石となった。幕府の寛政の改革に合わせて、藩政の改革に取り組んだ。風土を正し、人材を育成するために藩校(盈科堂)での読書と武芸などを奨励した。

利厚の後、養子の土井利位(としつら)が1822年(文政5年)に藩主になった。その時の家老鷹見泉石(たかみせんせき)は、大槻玄沢(おおつきげんたく)ら一流の蘭学者の間に名を知られていた。利位は学問を好み、泉石の影響を受け、日本初の雪の結晶の研究者として名を残している。

大坂城代在職中の1837年(天保8年)に大塩平八郎(おおしおへいはちろう)の乱が起きた。利位は鷹見泉石とともに事件の解決にあたった。大塩平八郎の乱の功績を認められた利位は、京都所司代、老中となり、天保の改革に参加し水野忠邦を助けて幕府の権威回復に努めた。1843年、将軍家慶(いえよし)の日光社参では、将軍の古河宿城の任務を果たしている。

利位は藩政改革を行い、倹約・人材登用・軍政改革・農政復興策をとった。老中主席にもなり、1848年(嘉永元年)、60歳で没した。
土井利亨(としなお)は、1848年(嘉永元年)に古河藩主になった。

利亨の後は、利則(としのり)、利與(としとも)と古河藩主はかわった。幕末の世情が騒がしい時期、どう対応するか各藩が混乱の中にあった。最後の古河藩主利與は1868年(慶応4年)、家老小杉監物の意見を入れ、京都の明治天皇に拝えつし尊王を約束したので、古河藩は戦火をまぬがれることができたのである。

〔 二大老・七老中 〕
近世古河藩の大名はいずれも徳川氏と深い関係をもつ譜代大名で、幕府の閣僚に列し、将軍を助ける地位にいたといえる。

古河藩主時代に大老を勤めたのは、土井利勝・堀田正俊の2人、老中であったのは、永井尚正・土井利勝・堀田正俊・松平信之・本田忠良・土井利位の7人をあげることができる。

初期のころの古河藩主は、古河城下や日光街道、そして宿場町の整備、発展に力を尽くした。中期の特色としては、農村対策に藩政の重点がおかれたといえる。後期・幕末にかけては、学問、教育、文化の進展、興隆がめざましかったということができよう。

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