2012.02.20
古河の歴史9 by もも子 [まちの歴史]
〔鎌倉街道と静御前〕
このころの主要な道となっていた鎌倉街道はいく筋も通っていたが、主なものは、
鎌倉 ― 武蔵国府中 ― 高崎 ― 信濃国へと続く「上の道」(かみのみち)、
鎌倉世田谷(東京都)― 春日部 ― 宇都宮 ― 奥州への「中の道」、
そして、
鎌倉 ― 浅草 ― 下総国国府台(こうのだい)(千葉県市川市)へと続く「下の道」(しものみち)があったと言われていて、古河のあたりは、陸上では「中の道」、水上では「下の道」に沿って鎌倉へ結ばれていたといえます。
この鎌倉街道沿いには多くの伝説が残されています。静御前の話もこのあたりに残された伝承の一つで、当時の様子を知る手がかりになるでしょう。
古河周辺に伝わる静御前の伝承はおよそ次のようです。
東北地方に逃れた源義経を慕い、侍女(じじょ)の琴柱(ことじ)を連れて旅を続けていた静は、下総国下辺見(古河市下辺見)まで来たとき、義経が奥州高舘(たかだち)で戦死したと聞かされ、思い悩んだ静は、そこの橋(思案橋)から引き返し、前林へ向かった。途中振り返りながら柳の枝を結んだといわれる。「結びの柳」や「静かえり」という地名なども残っている。
栗橋まで戻り、伊坂の里(高柳寺)(こうりゅうじ)で、琴柱に看取られつつ静は亡くなりました。
静御前の遺品と伝えられる舞衣(まいごろも)(蛙蟆龍の御衣)(あまりょうのごい)・義経のかたみの懐剣などは、そのとき納められたもので、寺宝として残されています。(光了寺縁起より)
高柳寺は、古河(中田)に移って、現在光了寺と呼ばれている。光了寺の宝物館(太子堂)に静御前の遺品などが保存されていて、「蛙蟆龍の御衣」は古河市指定文化財になっています。
ほかに静橋(中田)、静の椿(前林)などの伝承があり、供養碑は栗橋駅前にあります。
これらの伝承から鎌倉街道は、鎌倉 ― 伊坂 ― 前林 ― 下辺見 ― 古河 ・・・ 奥州へと続く道があったと考えられます。
静御前終焉の地を行くはここから
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