August 2012

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2012.07.23

古河の歴史25 by もも子 [まちの歴史]

前回の「古河の歴史24」の掲載はここ



〔 蘭学者 鷹見泉石(たかみせんせき) 〕
1822年(文政5年)7月、第11代古河藩主土井利位(としつら)の御用役になった泉石は、利位の雪の観察研究開始とともに、利位とは主従を超えた密接な関係となった。

泉石は1785年(天明5年)6月に古河城下の屋敷で誕生した。
また、泉石はヤン=ヘンドリック=ダップルの洋名ももち、13歳から74歳までのおよそ60年にわたって、125冊の日記帳を書き残している。
若いころからオランダ語に興味関心をいただき、研究を進め、色々な蘭学の勉強に励んだ。

さらに泉石は、蘭学を通して渡辺崋山(わたなべかざん)、大槻玄沢(おおつきげんたく)、大槻磐渓(ばんけい)など当時の著名な蘭学者たちや、シーボルトなどのオランダ商館員とも親しくしていた。
特に地理学に詳しく、広い世界の動きをよく見て「愚意摘要」(ぐいてきよう)を著し、幕府に外国との交流を願い出た。

また、「新訳和蘭国全図」(しんやくおらんだこくぜんず)や「日光駅路里数之表(にっこうえきろりすうのひょう)」などを著したり、大塩平八郎の乱を鎮めたりしたことも有名である。

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2012.07.06

古河の歴史24 by もも子 [まちの歴史]

前回の「古河の歴史23」の掲載はここ



〔 河口信任(かわぐちしんにん)と「解屍編」(かいしへん) 〕
河口信任は1736年(元文元年)5月9日、唐津(佐賀県)で誕生した。
幼少期は藩校盈科堂で学び、18歳で見習い医師になり医学への道を志し、長崎で遊学、栗崎流の外科奥義免許皆伝を習得した。

信任はオランダの人体解剖を特に研究し、1770年(明和7年)京都で自ら解剖刀をとって解剖を行い、取り出した臓器の一つ一つをオランダの医学書と照らし合わせ、その蘭書の正しさを知って大変驚いたという。

そして、熱心に研究した解剖の結果をまとめ、1772年(明和9年)に「解屍編」(かいしへん)という人体解剖の図書を刊行し、日本の医学の発展につくした。

このとき信任は37歳であった。
長崎で蘭学を学んだ信任は、古河藩で西洋の近代的な学問や医学を築き育ててくれたのである。

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2012.07.02

古河の歴史23 by もも子 [まちの歴史]

前回の「古河の歴史22」の掲載はここ



〔 教武場 〕
1857年(安政4年)9月、追手門の向かい側、片町(現在の西町)に新築された武道の修練道場が教武場である。

1859年(安政6年)には城内桜町にあった盈科堂も、同一敷地内の西隣に移されて、教武場と玄関を並べて建てられた。
教武場では、剣術、柔術、棒術、槍術、砲術、馬術、弓術、水泳が行われ、藩士たちは50歳になるまで厳格なけいこに励んだという。

武芸への入門は自由であり、毎日午前・午後の2回行われ、1回のけいこ時間は、約2時間であった。

技の階級もあり、春秋には3本勝負の試合があったという。藩士の一人千賀牧太(せんがまきた)は、特に剣術と柔術に優れ、40日間に165人と立ち合って他藩の藩士たちと腕をみがき、「鬼牧太」と呼ばれていたといわれている。

その後、古河藩が関東諸藩中で最も優秀な武芸藩と言われるようになったのは、千賀枚太の功績であるともいわれている。


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2012.06.19

古河の歴史22 by もも子 [まちの歴史]

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2012.06.06

古河の歴史21 by もも子 [まちの歴史]

前回の「古河の歴史20」の掲載はここ



〔 古河城と宿場町 〕
古河城は渡良瀬川沿いに北から南へ突出した半島を利用して土塁を築き、濠をめぐらせて構築されていた。大きさは南北約1.8km、濠を含めた東西の距離は450〜550mあり、その頃関東でも有数の城といわれていた。
本丸は東西約60m南北約130mの広さで、周囲に土塁を巡らし、御三階櫓、菱櫓、巽櫓、弓櫓などが立っていた。

二の丸は東西約45m,南北約195mの細長い曲輪で、中には二の丸御殿があり藩主在城中の居場所となったほかに、将軍が日光東照宮の参拝のさいの宿所にもあてられていた。丸の内は家老などの重臣の屋敷であった。さらに、南には頼政曲輪が連なるように続いて構築されていた。

土井利勝のときに三階櫓(天守閣)も築かれ、その姿は古河城の象徴としてそびえたっていた。

武家屋敷は城内および掘りの東側と北側に配置され、道路も防備を考えてつくられていた。
城内北側には追手門があり、そこが表玄関になっていた。追手門は、日光街道の二丁目から石町(こくちょう)・江戸町・片町を通って、西は渡良瀬川に至る幹線道路であった。これと平行して道路が街道から武家屋敷へ4通り通じていた。
東側は将軍が日光社参のとき、古河城に宿泊するための御成(おなり)道となっていた。台町には御茶屋口といわれる入り口があった。
城下町の道路は曲(かね)の手にまがったり、直角に交わったりするなど、城下町特有の道がつくられていた。城に近い地域は武家屋敷が並び、城下の外側には、雷電組、鴻巣組と呼ぶ足軽屋敷が置かれていた。

〔 日光街道と宿場町 〕
日光街道(奥州街道)に設けられた中田宿・古河宿・野木宿を古河三宿という。
古河城下宿場町の大通りには、南から原町・台町・一丁目・二丁目・横町の5か町があった。
この古河宿には大名の泊まる本陣や脇本陣があった。
古河宿と中田宿は、幕府によって整備された日光街道の宿駅でもあったので、人馬を常に準備し、人足(にんそく)や伝馬(でんま)をそろえて荷物運送にあたる問屋が数軒あった。
この日光街道(奥州街道)は江戸日本橋より北上し、中田・古河・野木の三宿を過ぎて宇都宮で分かれ、日光街道は日光に、奥州街道は白川に達している。利根川を渡る栗橋と中田には、1618年(元和4年)ころから関所が設けられていた。

〔 (にぎわった河岸(かし)) 〕
この頃の古河は、江戸と下野国(栃木)方面を結ぶ江戸川、利根川、思川、渡良瀬の河川交通としての河岸の役割も果たしていた。特に古河の船渡河岸の問屋は、この地方の河岸問屋の中心であり、年貢米や日用品、農村で生産した作物の輸送にあたっていた。肥料・綿・砂糖・小間物・塩・ろうそく・まき・すみ・地酒・地油の類が陸揚げされていた。
このように近世の古河は、城下町そして河岸の町として、さらに藩領(農村)の市場として発展していたのである。

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